コミュニティの育て方(2)食育がしたい

 

(後半から協会の話が出てきます。前半はコミュニティの育て方とは関係のない食育の話がメインですが、すこしのあいだ、おつきあいください)

 

もともと私は食育をしようとフリーになりました。

野球部員が野球から学んだり棋士が将棋から学んだりするかのように、私は生きるうえでの大切なことの多くを食卓で学びました。

食べることで体がつくられますが、受け入れることや手放すこと、人 を思いやることや怒りや悲しみとの調和も食卓で学びました。

私が出来上がるためには食卓が必要だったのです。

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高校の教員は教室ではあまり昼食をとりません。

学食があっても、生徒のいない時間に行きますが、私は教室や生徒のいる学食で昼食をとるのが好きでした。

なぜなら、その方が色々な発見があるからです。

 

賑やかな子だけど食べる時は一人で 集中しているんだな。とか、

「いただきます」って言いながら両手を合わせて目を 閉じるんだ。と

キュンキュンしながらニヤニヤと昼食をとる私を

「怖ぇ」とか「不気味だ」と言いつつも、徐々に諦め…..いや、受け入れてくれました。

 

中には私のお 弁当が質素だと、生徒がおかずを分けてくれることもありました。

ほとんどの子が家から持ってきた手作りのお弁当を食べていました。

大人しい子でも、やんちゃな子でも感謝をして食べ終え、それでも足りないと学食や購買部へ走っていました。

 

その他にも、実習や行事を通して一緒に何かを食べる機会が多い水産高校です。

一緒に食べることによって絆が深まったり、元気をもらえたエピソードは多くあります。

大人も子ども食べることで作られるのは体だけでは無いのだと実感していました。

 

強くそう感じたのは東日本大震災で被災したことでした。

先に言うと、私も家族も無事でした。

被害と言えば思い出の詰まった私の実家と、買ったばかりの車。

それだけなので下を向いてはいけないのですが、今までの人生で味わったことの無い恐怖や緊張を感じ、気持ちのバランスが悪いかったのでしょうか。

震災後3日ほどが経ち水が引いて家族を探しに出かけ、見つけられずに学校へ戻る帰り道のことで す。

ろくに食べずに歩き廻ったので疲労も相当だったと思いますが不安と不満が渦巻いてイライラした後、プツンと緊張の糸が切れて無気力になり道に座り込んで動けなくなったことがあったのです。

しばらく座りこんでいる間に、前を通る知人に声をかけられもしましたが何を話したか分からず。

ぽっかりと感覚のない時間が過 ぎて行きました。

 

そんな時、後輩が駆け寄って来て私を一声で立ち上がらせたのです。

後輩は私の様子に声がかけられずに一度は素通りして学校に戻り、また私がいた場所まで来てくれたのです。

この一言を伝えるために….

「先生! 学校におにぎりありますよ」

 

私は立ち上がっていました。

後輩の後を追って足早に歩いていました。

途中、 家や車で塞がれた道を、登ったり降りたりしながら必死に学校に戻りました。

涙で味のしないおにぎりを、美味しい美味しいと食べました。

 

正直に言うと、おにぎりが何か最初は思いがけない言葉すぎて分かりませんでした。

それでも私が必要としているもので、そこへ向かわなければいけないという気持ちがあったのです。

 

おにぎりを笑い泣きしながら食べる姿を見て、先輩が

「いいなぁオマエは、こんな時で も笑っている」

と言って笑ってくれました。

後輩も

「あまりに”ハラヘッタ”って 顔してたから、わざわざ戻ってあげました」

と笑っていました。

そうですそうです。

悲壮感が無いのが私のいいところです。

このまま生きよう。

自分を取り戻してくれ たのは食事でした。

負けないで頑張ろう。

そう思えたのは食卓でした。

 

「食事をないがしろにしてはいけない。食卓から広がる可能性は無限大」

そう 避難所となった学校で確信し、

「健やかな体と豊かな心のため、食で人を育てたい」

そう思いました。

そして、これが私の考える食育です。

 

世界情勢も宗教も飛び越えて多くの方に思いを寄せてもらいました。

なんだかんだ言っても、世界の人が望む社会は一緒なのでは?と感じたので

「世界中の人と食卓を囲む」

これが私の夢になりました。

世界中の人が笑顔で食卓を囲むことができたのなら最高です。

色々な考 えやスタイルがあっていい。

それも踏まえて同じ食卓を囲めたのなら、世界は平和になるに違いない。

そう思っているのです。

本気で。

 

食育を始めての悩み

 

さぁ本腰を入れて食育をしていこう!と、フリーになり「食育をしたい」とは 言ってみたものの、食育活動の仕方が分かりませんでした。

水産高校で食品の先生をしていた時に、地域のためにと研修を受け「みやぎ食育コーディネーター」となっていたので、その活動を積極的に行いました。

全てボランティアです。

やり甲斐もあり、喜び溢れる活動でしたが、ふと

「金銭的に余裕が無くなったら続けられなくなってしまうんだな」

と思い寂しい気持ちになりました。

「食育活動がしたいから働かなくちゃ」

そう思ったのです。

けれど、何か違う….とても遠回りをしている違和感がありました。

 

ボランティアで活動できる範囲には限界があることに気づき、このままでは嫌だと思っても悩みを誰にも話す相手がいません。

食育をボランティアですることに疑問を持つのはいけないことかな?とも思いました。

「食育がしたい」と周りに言ってみても

「何それ?」とか、「人に教えてもらうことじゃない」や「家ですることでしょ」なんて言われ、

お節介なのかな?お節介をしてお金をいただいたらそれはもうカツアゲみたいなものだろうなと悩みました。

 

それでもみやぎ食育コーディネーターの活動を行いながら、宮城県が食材王国と言われるほど食材に恵まれていながら食事を大事にできていない事実を調査結果から読み取ると、やっぱり「食育がしたい」に戻り、さらに「食育をしなければ」となるのです。

 

もっと食事を大事にして欲しい、食卓の可能性を知って欲しい。

そう思えば思うほど、もどかしさが募りました。

 

そのようなことを考えを持ちながら現協会総研の代表が企画する、食の展示会ツアーや講座に参加をしていたこともあり、代表に「食育がしたい」と話してみ ました。

元々食業界に詳しい方でしたし食育の必要性も承知で、色々な講座を手がけた方だったので、じゃあやってみる?と食に関する講座講師をすることになりま した。

願いは伝えてみるものです。

講師としていくつかの講座を受け持ったり、テキストづくりに携わることができました。

 

代表(以下、ボス)の手伝いをしていくうちに世界中の食の情報を知り、膨大な情報の中から信憑性のある情報の見極め方など、多くのことを学び鍛えられています。

その流れで協会総研のお手伝いをすることになりましたが「協会」という考え方を理解した時は衝撃でした。

長く学校の先生をしていた私は、当時「会社」というものに馴染めないと感じており、協会は理想の組織の在り方だと思ったのです。

好きなもの、大事に思っているものが同じである仲間が作れることや、

協会を作った人と会員になった人が相思相愛でなければ成り立たないこと、

そうして仲間が増えると世界を変えられるということも含め、理想の形がそこにありました。

私は漠然と「食育の協会を作りたいな」と思いました。

 

悩みはみんな一緒

 

協会総研の事務局をしていると、食関係の協会をしたい方からの問い合わせも先ずは私が受けることになります。

問い合わせが増えてくると食は別にした方が良いだろうと食育総研ができ、今度は食育総研の役員として食育をしたい方の悩みを聞くことになります。

 

多くの「食育がしたい」方の声を聞いているうちに、気付かされたことがありました。

私が答えている内容が一緒なのです。

つまり、同じ質問が来ているということです。

 

メールで返信をしているうちに

「これ、さっきも答えたな」とか、

「あれ?同じ人からの質問じゃないよね?」

と思うことが増え、一番強く思ったことは

「その悩み、私も悩んだことがある!」

でした。

 

興味深いことに問い合わせは全員が女性で、食育がしたいものの、やり方が分からない。

お金をいただいて良いのかが分からないと悩んでいるのでした。

 

もちろん、相談の中には「私もいつかそういうことで悩んでみたい」と思うような、目標にしたい方もいらっしゃいましたが、私が分かることだったら一辺にお伝えしたいなと思いましたし、悩みや疑問にお返事をするとさらに深い悩みが返ってくるという現象が続きました。

何かが溢れ出したかのように、皆さん自分の思う食育について教えてくれました。

素晴らしい志と、ユニークな視点を持っているのにも関わらず、自分にはできるのだろうか?というあと一歩のところで悩む姿をみて、もったいないとアドバイスをするうちに、一人じゃないことに気づいて欲しいと思うようになりました。

悩んでいる人同士をつなぐことができたらもっと大きなことができるのではないか?

一人が不安でも、複数の人が集まれば何かできるのではないか?

と考えるようになったのです。

 

(続く)